Researcher

島外へ出ても、関わり続けたい「地元」であるために

森下 祐樹(もりした ゆうき)

千葉県佐倉市出身。2009年に株式会社ベネッセコーポレーションに入社。九州支社で高校向けコンサルティング営業、東京本部で海外留学支援サービスの事業推進に従事。同社を退職後、ミャンマーでの民間企業勤務を経て、2017年より独立行政法人国際協力機構(JICA)バングラデシュ事務所の技術協力プロジェクト専門家として赴任。現地IT技術者向けの日本就職支援プログラムを立ち上げ、宮崎市をモデル地域とする「宮崎−バングラデシュモデル」を推進。2021年4月に慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程入学。長崎県壱岐市に設立された「壱岐なみらい研究所」の研究員に就任。

2021年4月 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程 入学
2021年4月 壱岐市 地域おこし研究員 就任(第16号)
2021年7月 「壱岐なみらい研究所」研究員 就任
2023年3月 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程 修了
人生の転機に関わる仕事をしたい

人生の転機に関わるような仕事をしたくて教育分野に関心を持ち、新卒では学校教育を支援する会社に就職しました。配属先は九州支社で、福岡県と熊本県の高校を担当しました。福岡での生活が、人生で初めて地元を離れる機会となりましたが、地域の方々のあたたかさに触れ、それまで自分が育った地元と異なる、各地のローカルな体験がとにかく新鮮でした。仕事においても、学校の授業や試験に関わる話だけでなく、各校の体育祭などの学校行事の現場を見るなど、高校や高校生の日常を取り巻く環境や文化を理解するよう努めていました。

九州支社で経験した仕事のひとつに、行政との協業プロジェクトがありました。熊本県が県内の高校生を対象に、海外大学等への進学支援を行う公設民営塾を開校し、私は民間企業の立場で関わりました。多くの高校生が国内進学をする中で、当時はまだメジャーではない海外大学進学を実現する先輩たちの背中を見て、同じ想いを持っていた後輩たちも続いていくという現象が生まれ、県の支援を受けた先輩は、後輩のサポート側に回るというように、地域の中で経験が還流されていく意義や面白さに気づく機会となりました。

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この経験がきっかけで、九州支社から東京本部へ異動となり、当時新規事業として取り組んでいた海外留学支援サービスの全国展開を担当することになりました。ここでは、まさに高校生の人生の転機に関わる機会が溢れていました。保護者に猛反対されたものの、対話を重ねて海外大学進学を実現するケースや、国内大学受験で希望が叶わなかったものの、海外進学を決意し、海外で猛勉強した後に、ステップアップして国内大学へ編入学するようなケースなどを見てきました。本人の意思と努力次第で、自らの人生を切り拓いていく姿を目の当たりにして、このような人生の転機に関われる仕事にやりがいを感じていました。

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自分自身の人生の転機を迎える

仕事は大変充実していましたが、それまで目の前の目標に向かって、高校・大学・就職と進んできた結果、気づけば30歳を迎えるタイミングになっていました。自分の希望が叶い、恵まれた環境に居続けられたからこそ、それまで積み上げてきたものを手放せなくなっていることに気が付きました。ここで決断しないとますます腰が重くなってしまいそうな姿が想像され、転職先など次の道を決めずに、年度末で退職することと、まずフィリピンに行くことだけ決めて退職しました。当時の上司や同僚からは、ただただ心配されたことを覚えています笑。

今振り返っても、新卒で入った会社を退職する決断こそが、私の人生の中で最も大きな転機でした。それまでは、高校でも大学でも、一定期間が経つと目の前に目標と期限が表れて、就職しても毎年ミッションが与えられて、それらをクリアすることを繰り返していました。それが次の道も決めずにフィリピンに行った時に、ふと「これから先のことは誰かが決めてくれる訳ではなく、自分が決めないと何も始まらないんだな。」と思いました。当然の気づきではあるのですが、この感覚は今でも鮮明に心に刻まれていて、改めて「自分って本当はどうしたいんだろう?」と自分自身の内側と向き合う機会になり、それから後の行動は全て自分自身で決めたことと自覚するようになりました。

ちなみに、フィリピンに行こうと決めたのは、初めて九州のローカルな文化に触れた新鮮さに似た感覚を思い出したのかもしれません。フィリピンにはジプニーという地元の方達が日常的に利用する乗り合い自動車があるのですが、車内に人が動けるスペースはなく、乗客伝いで運賃やお釣りの受け渡しをしたり、現地の言葉が話せなくても、降りたい時にコインで手すりのパイプを叩いて鳴らせば停めてくれたりと、その場にいる人のちょっとした協力で問題が解決されるローカルな仕組みに感動したりしていました。

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日本の地域と海外をつなぐプロジェクトでの経験

自分で決めるということを自覚するようになってからは、選択肢を吟味してから「選ぶ」というよりは、その時の直感に従って「決める」ことをして、決めた対象とじっくり向き合っていくという関わり方を自然とするようになりました。その結果、フィリピンに行ったあとは、ご縁が重なりミャンマーとバングラデシュでの仕事を経験することとなります。バングラデシュでは、初めて民間企業以外の仕事で、ODAの技術協力プロジェクトに赴任しました。現地のバングラデシュIT技術者向けに、日本就職をターゲットとしたトレーニングを開講し、私はプログラム運営と現地ステークホルダーのコーディネートを担いました。

このプロジェクトは、日本側では「宮崎−バングラデシュモデル」と呼ばれています。モデル地域である宮崎では、宮崎市、宮崎大学、宮崎の企業が協働して、バングラデシュのIT技術者を地域として受け入れる体制を構築しています。この経験を通じて強く実感したのは、同じ事業を行うにしても、関わる関係者の輪が広がることで、生み出されるインパクトも大きくなるということでした。一例として、来日したIT技術者が、関係者の協力により宮崎の高校で行われるプログラミング学習の出前授業にアシスタントとして参加するなど、企業への就職だけに留まらない活動が生まれています。200名近い日本での就職実績にもつながり、両国からプロジェクトの継続・発展を期待する声も大きく、運営主体が後継事業者に引き継がれ、私もプログラム運営に継続して関わることとなりました。

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バングラデシュでのプロジェクトを通じて、組織のために働くというよりは、特定のミッションを達成することに重きを置くプロジェクト型の仕事の面白さを感じるようになりました。今後も特定の社会課題に対して、自らがプロジェクトを立ち上げることにも挑戦したいと思っていた時に出会ったのが、慶應義塾大学大学院の「社会イノベータコース」と「地域おこし研究員制度」です。地域おこし研究員の説明会に参加した際に、壱岐市の方のお話に魅力を感じ、壱岐市で行われている「壱岐なみらい研究所」のミーティングにも参加しました。その後のSlack上でのコミュニケーションを通じて、一緒に取り組めるイメージを掴めたため、大学院の出願準備も進め、無事に大学院への進学と地域おこし研究員として任用されることが決まりました。

個人の越境体験が地域にもたらす価値を最大化したい

私はこれまで地域の高校生が海外大学に進学することをサポートしたり、バングラデシュのIT技術者が日本企業で就職するためのプログラムを運営したりと、越境を伴う個人の希望進路実現に関わる仕事に携わってきました。と同時に、一見個人の利益に見える領域に対して、熊本県、バングラデシュ政府機関、宮崎市など、公的なステークホルダーが関与するプロジェクトも複数経験し、個益と公益を相反するものではなく、両立可能なものとして捉え、そのプロジェクトデザインに関心を持つようになりました。

私の研究フィールドである長崎県壱岐市は、離島環境にあり、高校卒業後は多くの人達が進学等の理由で島外に出ることとなります。島外に出る前の心境としては7割近い人たちが「将来的には壱岐に戻ってきたい」と回答しているものの、具体的な行動に至るまでの道筋や選択肢が限られていることが障壁となっています。Uターンのように地元に戻るという行為だけでなく、期間限定で島内でのプロジェクトに関わる、島外にいながらも遠隔で関わるなど、今までになかったような関わり方もあって良いはずです。この課題に対して、個人の想いと地域の想いが共に満たされるような関わり方を研究・開発したいと考えています。

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(2021.08.16)

研究資料

参考