Researcher

子どもたちが共に学び合う、新しい防災教育をつくる

中川 優芽(なかがわ ゆめ)

静岡県富士市出身。2017年3月常葉大学 教育学部(国語専攻)卒業。大学では、高校時代の震災ボランティアの経験から、復興支援サークル「結志(ゆうし)」を立ち上げ、釜石市を訪問する活動などを4年間続けた。2017年4月に、富士市立岩松小学校に教師として赴任。音楽や書写の授業を担当する。2018年4月慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程入学。5月に釜石市の地域おこし研究員に就任。

2018年4月 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程 入学
2018年5月 釜石市 地域おこし研究員 就任(第6号)
2020年3月 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程 修了
静岡の高校生は何やってるんだ

東日本大震災が発生した時、私は高校3年生でした。従兄弟のお父さんが、震災直後にボランティアとして被災地に入っていたんです。お土産に福島県の高校生が宮城県のかつおを使ってプロデュースしたお菓子を買ってきてくれました。それを見た時、「現地の高校生がこんなにがんばっているのに、静岡の高校生は何やってるんだ」と思って。すぐに、ネットで高校生が参加できるボランティア団体を探して、唯一高校生でも参加できる団体に申請しました。そのボランティアで釜石市や大槌町などいくつかの被災地を訪問したんです。当時、釜石はまだ大変な状況で、遠野市に静岡県が建てた仮設施設を拠点にしながら行ったり来たりして、3日間滞在しました。

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滞在中に地域を案内頂く中で、「いのちてんでんこ」と呼ばれる地域に伝わる避難訓練の通りに行動して助かった事例がある一方、震災の8日前に避難訓練を行い、その通りに避難場所へ下ったがために、亡くなった方いるという事実を知りました。災害が起きた時、自分で考えて動かないと助からない命があるんだと、強く思ったんです。

帰った後に高校の先生に報告すると「じゃあ全校でしゃべる機会つくるから」って言ってくれて、全校生徒の前で釜石での経験を話しました。このことが、釜石へ行き来きし始めるきっかけになりました。

「会いたい人」がいる場所

もともと絵が大好きで。漫画家になりたいと思っていました。中学校まではそれなりに賞も取っていたんですが、高校に入ると取れなくなって・・・。好きなのにな、と思っていた時、中学校の教師をしていた母に「美術の先生にでもなったら」と言われて。改めて大学を調べてみると、私はバスケットボールをやってたし、ピアノも10年続けていた。美術の先生もいいけど、小学校の先生の方が向いているんじゃないかと思って。現実的ですが、自分の能力を総合的に活かせる職業を考えて、小学校の先生を目指すことにしました。

地元静岡の常葉大学に入学してすぐ、高校生の時のボランティアで知り合った友人と、再び釜石と大槌を訪れました。この頃には民宿に泊まれるようになっていて、復興が進んでいるんだなと感じていました。滞在中は、民宿の女将さんが話しをしてくれたり、美味しもの食べさせてくれたり・・・。「また会いに行きたい人」が見つかったと思ったんです。

でも、大学には入学した当時は、復興を支援するようなサークルはありませんでした。そこで教授に「作りたいんです」と話に行くと、ちょうど同じように考えている先輩がいると教えてもらって。その先輩と一緒に、復興支援サークル「結志(ゆうし)」を立ち上げました。バスは自分たちでチャーターして、20人程の部員を連れて年に2回、事前に現地のニーズを調査し、イベントや出し物をするというよりは、仮設住宅に住む方々とお話しながら、楽しい時間を過ごしてもらうこと、私たちは「第2の故郷に帰る」ことを意識して、静岡から釜石へ訪問し続けました。

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支援の方法を模索する

結志の活動で印象に残っていることの一つに、大槌高校との一緒に行ったプロジェクトがあります。初めて釜石を訪問した時に知り合った1歳下の大槌高校の友人とは「一緒になにかやりたいね」って話をしていて。大槌高校の学生たちに大槌を象徴するデザインを描いてもらい、それを静岡のパン屋さんに商品化してもらい文化祭で販売しました。パンは600個売り上げ、その売上は大槌高校へ直接送りました。

なにも、文化祭でパンを売らなくても、募金など他の支援方法はたくさんあったと思います。でも、その土地を知ってもらうという方法として、商品を作ることで現地に行く人が増えたり、調べてくれたりする人がいれば良いな、という気持ちがありました。現地に行って美味しいもの食べて、そこでお金落とすでも良いし、復興のパンを一緒に作って大槌高校に現金を送るのでも良い。現地へ何度も行っていたからこそ、「支援の仕方」を考えるようになっていました。自分たちがお金をどうやって落とすのか、復興の支援の仕方を模索してた時期でもあったと思います。

共に学び合う、新しい防災教育のモデルを作りたい

もう一回学び直したいなと言う気持ちはぼんやりあったんですが、決め手になったのは釜石と慶應義塾大学SFC研究所が協定を結んだ2017年8月です。「地域おこし研究員」に挑戦してみたいと思いました。

この1年間、小学校の教師として現場に立ってみて、例えば「総合的な学習の時間」という科目では、必ず自分たちが住む地域を題材にした授業をしていることが分かりました。そういった授業を活用して、釜石の小学生が事前に震災のことについて学び、静岡の小学生が来た時に説明ができるようにする。そして、静岡の小学生も自分の住む地域でこれから起こりうる災害に対してどうするか、自ら考えて導き出す。被災地である釜石とこれから地震が起こるであろう静岡の子どもたちが、共に学び合う新たな防災教育の形を作っていきたいです。

静岡県では、1995年に発生した阪神淡路大震災以降、津波避難タワーや陸空海の防災拠点として建設された富士山静岡空港など、ハード面を強化してきました。今後はソフト面の強化を推進するタイミングではないかと思っています。静岡県ではすでに中学校と高校で行われているので、この2年間で小学生の防災教育のモデルを確立して、県内で当たり前にできている状態にしていきたいです。

「防災」から、震災の記憶を後世につなぐ

実は今、「結志」の部員が減ってきていて。これから大学に入学する1年生は、震災当時小学生だったので、東日本大震災についてはほとんど知りません。現在小学生の子どもたちは、半数が震災後生まれなのでなおさらです。たぶん「震災」や「復興」という言葉にもピンとこないし、このまま忘れ去られてしまうんじゃないかと危惧しています。

先行研究から、阪神淡路大震災で被災された語り部が高齢化しており、言葉がわかりにくい、伝わらない、という課題があることをわかっています。震災を知らない子達も増えています。私の生まれ育った静岡県でも、今後いわゆる「南海トラフ地震」や「東海地震」と呼ばれる地震の被害が心配されていますが、避難訓練はマンネリ化している部分もあって。なかなかモチベーションが上がらないという現状があります。でも、もし地震が起きた時、担任の先生は出張かもしれないし、教室にいないかもしれない。津波は来ないと言われているけど、川がもし逆流すれば津波くるんじゃないか・・・このような想定外のことに対して子どもたちが自分で考え、動けるかと言ったら、まだまだ意識は低いのではないかと思います。

昨年、社会で震災が扱われている単元の授業をしてほしい、という依頼があり2時間の授業をしました。東日本大震災の事例を紹介して、自分の住んでいるところには何があるのか、想定外のことが起こった時にどういった行動をすれば良いか書き出させました。そうすると、「山へ逃げる」とか「先生の指示がなくても逃げる」、「低学年の子の手を引いて逃げる」、また何を持っていけば良いかなど、子どもたちなりに、自分の住む地域を思い浮かべながら、色々な意見を出してくれました。授業後の感想には「東日本大震災を知らなかったし、教科書でしか見たことがなかったけど、あんなに悲しい出来事にあった子がいることを知って、自分も南海トラフ地震が起きた時にしっかり逃げ切りたいです」といったものや「今でも遅くなければ支援したいです」という児童もいました。自分のこととして受け取ってくれたんだと、手応えを感じました。

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離任式の日に、一人の児童が手紙をくれたんです。「今まで受けた先生の授業の中でも、心に残ったのが防災の授業でした」という内容でした。とても嬉しかったです。校長先生、教頭先生、先生方も「いいよ」とやらせていただき、たった1年だけでしたが、本当に良い環境で経験を積むことができました。

理論と実践で課題に向き合いたい

この2年間は、公私共に自信をつける期間かなと思っています。これまでずっと実践的なことやってきましたが、課題が複雑になる中で実践だけでは越えられない壁にも直面しました。理論的な側面や方法論を知っていれば、解決出来たこともあったかもしれません。地域おこし研究員として、釜石という現場で理論と実践の両輪で課題に向き合っていける力を培っていきたいです。

(2018.05.17)

研究資料

参考